風のヒアシンスハウス 3
にぶく語る / コンパクトな居住装置 / 外で見つける
2013.12.071939年に24歳で亡くなった詩人・建築家の立原道造が残した夢、『ヒアシンスハウス』をめぐる物語の
最終回です。今回は、下のイラストの左端、西側のベッド・スペースにある小さな出窓のお話です。
湖面に向かう小さな出窓と
隠れ家的なベッド・スペース
ヒアシンスハウス前の道から眺めたハウスの正面は可愛い立面で、出窓がひとつあります。
道を隔てている柵は左側(北側)で少し奥に入っていて、道行く人が座れるベンチが置いてあります。
このあたりのプランは、立原が残した下のスケッチのとおり正確に再現されていて、図面の2本のポプラも
そのとおりの位置に植栽されています。また、雨樋(とい)と雨水を貯めておく甕(かめ)もスケッチのとおり
(甕は、立原のスケッチのように、もっと大きいほうがカッコがいいと思うけど)に出来上がっていて、立原の
思い描いたハウスの佇まいを感じ取ることができるのですが…
一点だけ、この出窓について、元のプランと大きく違っているところがあります。
現在の出窓は、別所沼とは反対方向に向いていて、公園の駐車場側に面しています。
しかし、この出窓は、本来なら、別所沼の湖面を望んでいたハズだったのです。
スケッチ資料より
立原が慕っていた、別所沼近く
に住む詩人、神保光太郎宛てに
本人が送付したもの。
神保は、住居予定地の地主との
仲介もするつもりだったようだ。
(1938年2月2日付/神保家所蔵)
上の左のスケッチでわかりますが、ハウスを訪問する人は、別所沼を左手に見ながら沼に沿って
道を北に進み、右に折れて建物のアプローチに入ることになっていました。
立原は亡くなる前年の1938年に、水戸部アサイとともに、この土地を訪れたりしているので、
借りる予定だった土地は正確に見分済みだったはずです。
石本建築事務所に就職した頃の立原道造と、
彼の最後を看取った水戸部アサイ。
彼女は同じ建築事務所にタイピストとして入社
した当時としては非常にモダンな女性。18歳頃
に立原と出会い、19歳頃に死別することになる。
すなわち、別所沼の東側の湖畔で、立原の友人の神保光太郎や須田剋太らが住む芸術家コロニーの
ある鹿島台にほど近い場所にヒアシンスハウスは建てられるはずでした。
『ヒアシンスハウスを建てる会』の方々が、現代にハウスを建設するにあたり、検討を要した課題のひとつ
が、このハウスの配置についてでした。
なぜなら、今の別所沼の東側は民家が迫っていて、公園内の敷地に建設する前提であるなら、ハウスを
西湖畔に位置させる以外に選択の余地がなかったからです。
立原が重視したはずの西出窓からの眺望の問題をどう扱うかが、議論の的となりました。
なにしろ立原自身が『鉛筆・ネクタイ・窓』というエッセイで、湖水に面する小さな窓について夢を語っている
ほどですから。
この場合、どのような解決策があるのでしょうか?この文章を読んでくださっているアナタが、もし立体を
頭の中で操作するのが得意な方なら、以下の検討案に沿ってハウスをバーチャルに回転させて見てくだ
さい。たぶん、違いが楽しめると思いますよ。
設計時の記録資料 『ヒアシンスハウス設計会議の概要 2003.6~2004.3(PDF)』 によると、以下の
3案が検討されたとされています。
案1:180度回転する
上記資料では『東西を反転する』となっているが、この表現だと
下で述べる鏡像案と紛らわしいので、180度回転とした。
この案では出窓と別所沼の関係は維持されるが、窓の方位が
すべて逆になる。特にコーナー窓は、南東から北西に変化して
しまい、立原が仮にこの場所で設計するにしても、リビング窓を
この方位にするプランはありえない。また、現在の位置関係では
北西の方向に公衆トイレがあり、眺望・採光ともハウスの魅力を
大きく損なう。
案2:そのまま平行移動
実際に採用された案。ヨナデンも頭の中で色々シミュレートしたが
この案がベターだと思う。次点が下で述べるリバース案(^Д^;)
この案は、各窓の方位・採光は原プランどおりとなる。残念ながら
出窓が別所沼と反対方向に向くが、そのかわりといっては何だが
リビングのコーナー窓が湖水に向き、眺望・採光が素晴らしい。
ヒアシンスハウスを見学者に楽しんでもらう目的には最もかなう。
案3:90度回転する
この案は、湖畔の休暇小屋として何ひとつ不足のないプランでは
あるし、おそらく、対岸からヒアシンスハウスの片流れ屋根が最も
美しく見える配置であろうと思われる。
しかし、原プランと方位・採光・アプローチなどにおいて全て微妙に
異なり、原プランの良さを、どれ1つとして満たさない居心地の悪さ
が残る。
以上が、資料に残された検討案ですが、もうひとつヨナデン独自の案を付け加えておきます。
ヨナデン案:鏡像反転する
この案では、出窓と別所沼の関係、及び南北の採光は維持され
る。左右対称となることを除けば、全ての家具の配置・アプローチ
も原プランに順じたものになる。
ただし、この建物は、もはやヒアシンスハウスではなく、『ヒアシンス
ハウス・リバース』『ヒアシンスハウス・ミラード』と呼ばれるべきもの
である。『夢の継承事業』のひとつの検討案として許されると思うが
どうだろうか。
さて、出窓の話にもどります。 先に述べた立原のエッセイでは、以下のようなことが書かれていました。
窓はあまり大きくてはいけない
外に鎧戸、内にレースのカーテンがあること
ガラスは美しい磨きで外の景色が歪まないこと
窓台は大きい方がいいこと。リンドウ・ナデシコ・アザミなど紫の花を飾りたい
窓は大きな湖水に向ってひらいている
湖水のほとりにはポプラがある
総じて、このヒヤシンスハウスのベッドサイドの出窓のことを言っているようにも思えます。
この出窓も、東南のコーナー窓に比べて、とても控えめな大きさですが、窓台にゆとりがあるため、あまり窮屈な
感じがありません。窓からはポプラが見え、そのむこうに別所沼の湖面が(プランでは)広がっていました。
ベッドスペースは、前回 『風のヒヤシンスハウス 2 』 でも触れたように、家具に囲われた、ちょっと隠れ家っぽい
ニッチな場所になっています。
若者らしい秘密基地めいた雰囲気もありますが、
それと同時に、友人が大勢リビングに遊びに来てほしいけれど、疲れた時には、人目を気にしないで直ぐに体を
休めたいという、病弱だった立原の気持ちも現れている場所のような気がします。
このベッド・スペースは、日本橋の立原の自室に似ていたらしいという指摘もあります。
立原の肩越しに見える
1937年頃の東京中央区
東日本橋(実家ベランダ
から。立原が持っている
のは愛用のランプ。この
ランプは1回目のイラスト
に登場させた)
立原の実家は日本橋区橘町(現:中央区東日本橋)の問屋街で商品発送用の木箱の製造を営んでいました。
この実家の3階の屋根裏部屋を、立原は自ら『バー・コペンハーゲン』と名づけ、愛用の雑貨に囲まれて暮らして
いました。
デンマークやスエーデンに興味があり、北欧の建築雑誌なども購読していた彼はインテリアの趣味も北欧的だった
ようで、その部屋は周囲の下町情緒からかけ離れた、異国的な雰囲気に包まれていたという証言があります。
立原の友人の作家、杉浦明平の証言によると、この部屋には『天窓』がありました。
…三階の屋根裏が立原の部屋である。屋根裏といっても商店の物置兼用の傭人寝所と違って広くて清潔だった。
立原は、「ぼくの寝台では、天窓から星がピカピカ光っているし、月の光も射してくる。…」といった。
(『天才・立原道造の建築世界』 武藤秀明著 文芸社)
天窓と昭和初期の天体望遠鏡
(イメージ画像)
そういえば、 立原は天体が好きで、大学で天文学を学ぶかどうか迷った時期がありました。
ヒアシンスハウスの出窓は、立原の自室の天窓に相当するものだったのでしょうか。
残念ながら、立原も、そして水戸部アサイも 、ヒアシンスハウスの出窓から外を眺めることはありませんでした。
ただ、日本橋の自室の天窓から見える星や月については、水戸部アサイは知っているような気がします。
というのは、アサイの献身的な看護もむなしく立原は亡くなるのですが、
長男を失って嘆く母トメの懇願で、2ヶ月間、アサイはこの実家で暮らしたという記録があるからです。
『天窓から星がピカピカ光っているし、月の光も射してくる』光景を、彼女は静かに眺めていたかもしれません。
水戸部アサイはその後、長崎に移り、クリスチャンとして平穏な人生を送られたそうです。
『風のヒアシンスハウス』は、これで終わります。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
『風のヒアシンスハウス 1 』 (詩人・建築家の立原道造の残した夢の休暇住宅)
『風のヒアシンスハウス 2 』 (立原道造の夢の休暇住宅のプランの秘密)
『靴箱のエレガンス 2 』 (海外ブログ shoebox dwelling の小住宅記事紹介)
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