もうDIYでいいよ。

方丈庵を解体してみる

 

『聖ヒエロニムス謎の書斎 』 で、ルネサンス期のイタリアの画家、アントネロ・ダ・メッシーナ の描いた

不思議な書斎が、可動式の居住装置かもしれないと、かなりの想像を交えて話題にしましたが、

実は、アントネロの時代から200年以上も前の中世日本で、歴史学的に確かな、可動式でユニット組立式の

コンパクトな住居装置が、1人の歌人・趣味人によって完成していました。

 

『方丈記』で有名な鴨長明(1155~1216)の『方丈庵』です。

 

上の画像は、方丈庵の復元レプリカで、長明ゆかりの京都・下鴨神社摂社の河合神社に展示されています。

今年は、『方丈記800年』になるそうで、記念行事のせいか、このレプリカ周りも整備が進んでいます。

なにより、建物を覆っていた保護用素屋根(下画像右上)が、レプリカの外観を損ねていましたが、

今(9月末現在)は、それが取り払われて、スッキリすると同時に、方丈庵の輪郭を掴みやすくなっています。

建物が華奢なので、台風の時とか心配ではあるんですが、こんど保護屋根を設置する場合は、

ガラスのキューブにするとか、もうちょっと素敵な天蓋にしていただきたいものです(^_^;)

 

方丈記800年記念行事では、スタジオジブリが数年前の企画展『堀田善衛展 スタジオジブリが描く乱世』

(神奈川近代文学館/2008年)のために作製したイメージ画300点が、新企画『定家と長明』展として、

なんと下鴨神社(賀茂御祖神社)神服殿にて展示されています(下画像左。10月1日~12月16日)。

堀田善衛の描く鴨長明は、確かに極めて魅力的で(下画像右下)、前々からこの企画を温めておられる

宮崎吾郎監督には、じっくり実力を培っていただき、いつか満を持して映画化に取り組んで欲しいと思います。

 

 

前置きが長くなりましたが、この河合神社の復元レプリカから、方丈庵の『コンパクトな居住装置』っぷりを

今回と次回で図解しながら見ていきます。

今回は1.方丈庵の構造について、次回は2.移動時の運搬、3.インテリア について話題にします。

なお、このレプリカは、下鴨神社の『鴨長明と河合神社資料展』(2004年)リーフレットにあるように、

『長明の方丈の復元について諸説ある中で、京都工芸繊維大学名誉教授・中村昌生氏の監修の元、

株式会社安井杢工務店の協力により実現した』もので、方丈記の記述の学術的な一解釈であることを、

あらかじめ、おことわりしておきます。

 

1.方丈庵の構造


その家のありさま、よのつねにも似ず、廣さはわづかに方丈、高さは七尺が内なり。
所をおもひ定めざるがゆゑに、地をしめて造らず。土居を組み、うちおほひを葺きて、
継ぎ目ごとにかけがねをかけたり。
                                     (鴨長明/方丈記)

 


————こういう桁はずれの家を、彼はおそらく大原で
みずから「差図」(設計図)を引いて考えたものであったろう。
いろいろと考え、いろいろ差図を引いてみて、
この組立て式移動式がよいということになった。
よいということになったものを、実行実践するところに、長明がいる。
考えるだけではない。本質的にこの男は実践者である。                        

                        (堀田善衛/方丈記私記)

 

方丈庵の広さは、1丈(約3m)四方で、5畳半程度。地面に石を据えて土台とし、その上に柱を組んだ作りで、

移設しやすい構造です。21年毎に式年遷宮が行なわれる下鴨神社も土居桁構造で、全面改築がしやすい

お社であり、建築的に長明は何らかのヒントを得たとも言われています(下鴨神社の本殿2棟は国宝であり、

伊勢神宮のような完全新築はできないため、今回の平成27年の第34回遷宮でも修築のみ行なわれます)。

 

このレプリカでは、方丈の壁構造が、わずか3種の規格化されたユニットで構成されており、組立てと分解が

極めて簡単に行なえます。

そのユニットとは、 ①外が竹網代(あじろ)張、内が板張の壁面パネル=9枚

            ②採光・日よけ・通気調節のための蔀戸(しとみど)=3枚

            ③出入り口用の引き違い舞良戸(まいらど)の戸板=4枚

の計16パネルであり、これを取り去ると完全に柱骨格のみとなる構造です(屋根切妻部のパネルは除く)。

それらの位置関係を、わかりやすく図解してみました。

 

上記①の、外側が竹網代(あじろ)張りの壁パネルですが、実際の外観は下画像左(南西角方向から撮影)です。

約130cm×80cm程度のパネルが整然とはめ込まれていることが判ります。

右は、西壁を内側から見たもので、パネルの内面は板張りになっています。方丈記の『継ぎ目ごとに、かけがねを

かけたり』という記述を徹底して、このパネルも四隅の金具で固定されています。

 

この復元で竹網代編みが採用された理由を考えると、平安期では、この技術が、防水・強靭さ・軽量性・加工の

自由度などの点で、現在のカーボンファイバーに比べられる素材加工技術だったからだと推察できます。

アイデアマンの長明が壁面パネルを考案する時、取り入れても不思議ではないと考証されたのではないでしょうか。

上画像左は、奈良在住で革グッズ・プロジェクト 『鹿野堂(ろくやどう)』 を企画されているnakaさんと”にっしゃん”さんの

奈良情報サイト 『奈良に住んでみました』 の記事、 『平城遷都1300年祭:平城京歴史館/遣唐使船復原展示』 で、

竹で編んだ網代帆(あじろほ)で航海した遣唐使船を取材されています。注1) 奈良期には大型船の帆として耐える

だけの帆布が存在しておらず、この網代帆が最強の素材として使われていたというような歴史があります。

上画像右は、京都・風俗博物館 のサイトのコンテンツ『牛車で清水詣へ出かけよう』の 『牛車の種類』 で、牛車の外殻

である『屋形』を竹やヒノキの薄板で網代に組んで造形した網代車(あじろぐるま)の種類を知ることができます。

軽量・強靭で自由な造形が要求される『クルマ』のボディ素材として採用された網代編みは、現代のカーボンファイバーに

本当に良く似ています。そういえば竹も炭素繊維でしたね(^_^;)

 

 

下画像左は、レプリカ南面の②の蔀戸(しとみど)です。蔀というと、どうしても寝殿造りの格子状の吊るすタイプ(右画像)を

想像しがちですが、この庵は、上部がヒンジになった簡素な戸板を竹竿でつっかえてあるだけの素朴な味のある窓です。

 

③の出入り口を、引き違いの舞良戸(まいらど:下画像左)に復元してあるのは、議論のあるところです。

というのは、こういう引き違い戸板が普及するのは、もう少し後世になってからで、舞良戸の名称もこの時代には

ありません。平安期の寝殿造りの出入り口は妻戸(つまど)と呼ばれる両開きの扉のほうが一般的だったのです。

ただ、寝殿のような大空間では問題がなくても、3m四方の狭い場所に両開き戸は使い勝手が良いとは言えず、

特に、南面の濡縁(竹のスノコ)と相性が悪すぎます(下画像右)。扉が外開きでは、濡縁の西端にあったとされる

浄水を置く閼伽棚(あかだな)が使い難くなります、かといって内開きでは、内部にムダな空きスペースが必要です。

平安期に引き違い戸が存在しなかったわけではなく、遣戸(やりど)と呼ばれたタイプは絵巻物にも登場しますので、

やはり、南の濡縁、東の庇のカマド場への出入り口として、舞良戸が正解なのではないでしょうか。

 

以上、最後まで読んでくださってありがとうございました。

『方丈 :移動可能という夢』 では、このレプリカの木材を分解して大八車に積んだ場合の

シミュレーションを行なっています。

 

   『聖ヒエロニムス謎の書斎 』  (名画『書斎の聖ヒエロニムス』の謎の書斎に迫る) 

  『バロ:謎の駆動式住居 』  (女流画家レメディオス・バロが描く不思議な移動住居)

  『方丈:移動可能という夢 』  (方丈庵はこうして移動?庵のインテリアにも原典から迫る)

  『風のヒヤシンスハウス 1  』  (詩人 立原道造が紡ぎだす風の住居。その概観)

 

 

注1) 奈良情報ポータル『奈良に住んでみました』について

2007年の室生寺の記事から始まる 『奈良に住んでみました』 は、現在(10月上旬)1130エントリ以上を数え、
ほぼ個人で運営されている地域情報ポータルとしては、きわめて質の高い情報を持続して発信されています。
特に奈良という地の利を活かした、文化財関連のエントリには参考になるものが多く、当ブログとも関連のある
話題を扱ったエントリを3つだけご紹介します。


香木『蘭麝待』も登場した『第63回正倉院展』@奈良博(2011-10-31)
    ⇒香木の『伽羅』については、当ブログ記事 『日本のお香で落ち着く』 でも話題に。

特別公開『正倉院正倉』工事現場を見学してきました(2012-09-21)
   ⇒国宝・正倉院は現在修復工事中で、一般者見学が限られている中、修復の様子を取材。

国宝・東塔の大工事が始まる直前の『薬師寺』@西ノ京(2011-08-15)
   ⇒薬師寺東塔の修復と水煙については、当ブログ記事、『薬師寺東塔の水煙』でも話題に。